寅蔵のお薦め菓子話

=きのこの山&たけのこの里=

今年、明治製菓や明治乳業などが一緒になりますが、その新しいロゴです。 「板チョコレート」が一番大きいので見やすいのですが、それぞれの文字に意味があります。 一度ゆっくり見てみてください。 「m」を良く見ると左上のハネが「トロッとしたチョコレートの柔らかさ」を表しています。 「e」は人の笑顔を横から見た所をイメージしてあります。 「iji」は真ん中の「j」がお母さんを表しています。挟んで両脇の「i」は子供です。お母さんが2人の子供の手をつないでいるように見えませんか? その明治製菓が発売している商品の中に、嗜好が年代で分かれる商品があるのです。 「きのこの山」と「たけのこの里」あなたはどちらがお好きですか? 「きのこの山」は昭和50年の明治製菓大阪工場で誕生しました。誕生日は9月30日です。今年は、「きのこ山」は35歳の誕生日のキャンペーンをいろいろ企画されています。http://www.meiji.co.jp/sweets/chocolate/kinotake/この誕生のの5年ほど前から、明治製菓では「アポロ」「チョコベビー」に継ぐ商品開発がいくつか考えられ、その中に「きのこの山」があったのです。その後、昭和54年に「たけのこの里」が発売されます。

毎年、売上は「きのこの山」:「たけのこの里」=45:55くらいで「たけのこの里」の方が売れています。 「きのこの山」も「たけのこの里」もチョコはミルクチョコの上にビターチョコをかぶせてあり二層です。 (ビターチョコのほうが香りが良いらしい。海外にはできない、日本製ならではの細やかな気遣いですね) 「きのこの山」は89グラム、「たけのこの里」は84グラムと軽いのに「たけのこの里」の方が売れています。 「きのこの山」と「たけのこの里」を年齢層によって好みがどうもわかるらしいのです。(自社の社員さんやパートさんに「きのこの山とたけのこの里のどっちが好きですか?」と一人一人に聞きました。(暇だな)

なんと年齢層によって好みがはっきり分かれました。「30代までの比較的若い世代はタケノコの里を支持します」「50代以上の年輩者は殆んど、キノコの山を支持します」つまり、1975年にチョコレートを買った世代の人は「キノコの山」を好み、1979年以降にチョコレートを買った人は「タケノコの里」を好みます。 食べる菓子によって年齢層がわかるのも何だか面白いですね。 年齢が若い人は「たけのこの里」を好む人が多い。

・・・むむむ、私は「きのこの山」派です(苦笑)。

----------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------

=グリコ創業者のパワー=

「江崎グリコ」ってご存知ですか?
「グリコは知ってるけど江崎グリコって知らない」という人もいるかもしれません。 「グリコ」「ポッキー」「ビスコ」なんかを作っている会社のことで「江崎グリコ株式会社」がその正式名です。

創業者の江崎利一さんは明治15年(1882年)、佐賀県神埼郡蓮池村で生まれ。 15歳で小学校高等科(今の中学校)を卒業して家業の薬の行商に従事します。とっても勉強が出来て、先生や同級生が「上の学校に進め」と言われたそうですが親の方針と家が貧しかったので家業を継ぐ事に決めます。

朝から夕方までは勿論、家業の「薬の行商」に歩き回る毎日です。しかし、働き者の江崎青年は、仕事の前の朝の1時間「塩の行商」を始めます。利一氏は「このあたりは朝には茶粥(ちゃがゆ)を食べる習慣があるが朝になって塩が切れたことに気付く人が多い」と書いてます。

多分この朝の仕事で「人のお役に立つ」事の素晴らしさに気付いたのかも知れません。 また、仕事が終わった後、夜には「役所への登録のお手伝い」の仕事を始めます。今で言うと「司法書士」のような仕事だったのかもしれません。 この仕事は江戸時代の武士が二人、役所の中で仕事してましたが、横柄で中々登録に時間がかかります。利一は役所の中では仕事がさせてもらえないので大変不利な状況でしたが、機転をきかせて速く仕事をこなすので大人気になり、どんどん仕事が増えます。

早朝は塩を売り、昼は薬の行商、その後深夜まで登録の書き物をして時には徹夜に近い日が何日も続いたようです。 利一が凄いのは「行商しているときには体は使わないから頭を休めれる。夜の登録には頭は使うが体を使わないから体を休められる」と徹夜を難なくこなしてしまった事です。

19歳の時にお父さんが亡くなります。 薬の行商をしているある日、「空き瓶(びん)屋」に出会います。聞くと「これは葡萄酒(=ワイン)の瓶で、空き瓶を大阪に送り返す」と言います。 「大阪で葡萄酒を樽から瓶に詰め替えるなら、九州で樽から詰め替えた方が安く出来るのではないか?」そう考えた利一は、長崎から樽の葡萄酒を瓶に詰めて九州一円売り広げ大もうけします。 大阪への瓶の往復運賃分安く売れるからどのお客さんにも喜ばれます。 40歳近くになり利一の大阪行きを反対していた母親が亡くなります。 大都市大阪行きをいよいよ実現できます。 ある日、利一は、海岸で牡蠣(かき)の煮汁を捨てているのを見ます。佐賀県は牡蠣の産地らしく、煮て干した牡蠣を中国に輸出していました。 その煮汁を貰って帰った利一は薬でつちかった技術で濃縮して大学の研究室に持ち込み栄養たっぷりの「グリコーゲン」が沢山入っているのを確認します。 「このグリコーゲンは滋養強壮みんなに喜ばれる」と毎日考え続けていました。 葡萄酒の商売は大いにあたり、利一の回りでも皆が同じ商売を始めました。 あるとき、突然「こんなに儲かるのはおかしい」と利一はこの商売から手を引きます。途端に世界恐慌がきました。 同業者は全て倒産しましたが利一だけは大儲けで商売を終えます。 「一生懸命仕事していればピーンと第六感が働く」と利一は書いてますが、予知能力があったのかもしれませんね。 41歳に大阪に出た利一はグリコーゲンを入れた「キャラメル」を発売します。

実はこの18年前に森永製菓がキャラメルを発売していて「グリコ」はキャラメルではかなりの遅れをとりました。

「創意工夫」がモットーの利一は「人の真似(まね)が大嫌い」です。 商品名は「グリコ」です(「グリコキャラメル」ではありません) 森永のキャラメルは黄色い箱です。「黄色」も嫌なので「赤色」にしました。 キャラメルの形も四角でなくハート型にして、いろんな工夫で発売します。 販売方法も考え、最初に三越百貨店と取引して「三越にも売っております。グリコ」との新聞広告を打ちます。 「おまけ」もつけて「おまけ付グリコ」で販売します。 いろんな販売努力をし続け、やっとグリコは売れるようになったのです。 この頃は、キャラメルの粗悪品が多く、メーカーが淘汰されていて「今からキャラメルは遅い」と言われていた時です。「こういう売れない時こそ商機である」と感じた利一一流の考えには驚きます。 その後は、ビスケットは「カルケット」(明治製菓が大正9年に発売)が全盛であったが、グリコは酵母菓子「ビスコ」を発売します。 これまでにクリームをはさんだビスケットは無く、これも画期的な商品です。 ひと山に一粒ずつアーモンドをまるごと入れた「アーモンドグリコ」を昭和33年に発売する。 明治製菓がアーモンドチョコを商品化するのが昭和37年、ロッテが「ガーナ」でチョコに参入するのが昭和39年なのでこれまた画期的な商品。 「ポッキー」は昭和41年に発売。今でこそ明治の「フラン」やロッテの「トッポ」があるがチョコ付菓子のさきがけ的な商品である。 現在の社長は江崎勝久氏で創業者の二代目で孫である。息子さんは39歳で亡くなっていて、孫に継ぎました。創業者は97歳まで生きました。 もちろん経営の基本的な考え方は「創意工夫」です。

-------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------

=エンゼルマークのお話=
ここは、少し寅蔵がお菓子業界を眺めてきていろいろ聞きし面白いお話やなぜ?をお薦めとして紹介させていただきます。

菓子屋の秘密の第一回目は「森永製菓はどうして”エンゼルマーク”なの?」って事をお伝えします。

「エンゼルマーク」の誕生!」には、「太一郎が当時よく作っていたマシュマロが”エンゼルフード”と呼ばれることにヒントを得て考えられました」と伝え聞きます。 「どうして森永製菓創業者の森永太一郎氏はマシュマロを作り始めたのか?」をなを探ってみます。

それは、森永社史にもあまり書かれていない秘話でもあります。

森永太一郎氏は、佐賀県伊万里市生まれで、明治時代に「伊万里焼をアメリカに輸出する」事を心に決め、米国に単身向かいます。 しかし全く売れずについに、公園で倒れてしまいます。そのような 餓死寸前の森永氏を助けたのが「キリスト教会」の方だったのです。

教会の方々に助けられた森永氏は菓子屋で修行して日本に戻ります。その時に覚えたマシュマロの作り方が森永さんの基礎になったわけです。

マシュマロはフワフワするから「天使の食べ物」つまり「エンゼルフード」というのですが、森永太一郎氏には助けられたキリスト教会の壁面に書かれたくさんの天使の絵が忘れられなかったのかもしれません。 助けられた恩を忘れず、森永太一郎氏は敬虔なクリスチャンになりました。 ちなみ上のマークは、1951年から使われている6代目のマークです。


7代目のマークは、左のもので1986年から使われています。

 

 

お菓子ラボ

商いカレンダー